岡崎子ども教室総監督
指導法を語る
矢田 香子
バスケットはチームワーク、そして愛だ。
講演の背景
さる5月18日、岡崎子ども教室の矢田総監督が熊本市において講演会を行った。
愛知の岡崎子ども教室といえば、全国ではまず知らない人がいないほど有名だ。今年の3月の全国大会では、男子が4年ぶり2回目の優勝を果たしたが、技術面もさることながら、礼儀の素晴らしさはその際も大いに注目された。難しいとされる精神面の指導。
今回は矢田総監督がその精神面での指導、および経験談を約2時間にわたって熱っぽく語った。
命をかけて育てる
みなさん、ようこそおいでいただきました。今日は私の人生観についての話になるかもしれませんが、どうか最後までおつきあいください。
私は実はね、岡崎女子短大で授業を受け持っている教育者でもあるんです。どういう学校かというと、保母さんを育成する学校なんですね。
今日はお母さん方も大勢いらっしゃっているので、私が最初の1時間目にする授業を、ここでご披露しましょう。
あなたが生まれた時、何kgだった?小さくてお母さんが心配した子じゃなかった?そうだったでしょう。2500gにもみたなくて、保育器に入っていたじゃない。
ほら、3つの時、お祭りにいった帰りに風邪を引いて肺炎になったじゃないの。お母さん心配したんだよ。その時、枕元で熱が下がらないからっていって、3日ぐらいつきあっていたの。お医者さんは、「今日がヤマ場ですよ。今日の峠をこせれば」って言っていたのよ。その日のお母さんを知っているかい? お母さんはお前が寝ている間に、顔をじっと見て「神様、どうかこの子を助けてやってください。私の命をたとえ召そうとも、この子の命を助けてやってください」と言っていたんだよ。
お母さんはお前を育ててきたんだよ。親子とはそういうものなんだよ。命をかけて育ててきたんだよ。
先生になったら、命をかけて守らにゃあ。親が命より大事にしてきた子なんだから。先生になったら命をかけて、その子を守らなければ。命をかけて子どもを守れる者は私の授業へ来い。教育が商売と思う者はやめて出ていけ、うちの大学なんかやめていけ”
1時間目の授業でこう言うんですよ。
愛と礼——心を受けること
お母さん方は恋をしたことはありますか?今のご主人から好きだって言われませんでしたか。好きよって言われたらどんな気がしますか?いやだなって思うことはないでしょう。
例えば、お母さん方の中には、子どもの担任の先生に不満がある方がいらっしゃるかもしれません。だから子どもに言うんですよ。
そしたら子どもは学校で「先生、うちのお母さん、先生のこと大好きだって言ってたよ」と言うでしょう。先生は絶対に悪い気はしないものです。その子に対して誠意をもってみるようになるでしょう。
今回、私をこの場に招いていただいた片平先生とは、知り合ってもう10数年になります。今年の全国大会の時も片平先生が、うちの泊まっている旅館へ来てくれました。その片平先生がこう言いました。
私の教室は矢田の教室ではありません。今年も全国で優勝した時、子どもたちは、真っ先に親のところへ行って「お父さん、お母さんありがとう」って言ったんですよ。みんな泣いてしまいましてね。
これは何でしょうか。あいさつですよ。おじぎというのは、礼の心なんです。礼の心とは何でしょう。きずななんですね。きずなってなんでしょう。愛なんですね。心という字があります。受という字があります。つまり愛というのは心を受けることなんです。
試合前におじぎする、相手の心を受けることがおじぎなんですよ。大接戦して一生懸命やって、1点差で負けたとしても一生の思い出になるじゃないですか。相手は生涯の思い出をくれる、感動をくれる恩人ですよ。
だから岡崎では出場する子ども全員が、相手に手紙を渡すようにしています。感動だからですよ。恩人だからですよ。礼というのは何でしょう。うれしかったという感動を受ける愛のことなんですよ。
男の約束——Nの物語
私の教室に一番遠い所から通っていたNという子がいました。雨が降ると、バスじゃ大変だということで、母親が車で送り迎えしていました。その子は4年生の時から教室に来たんです。小さな子だったんで、結局はレギュラーにはなれませんでしたけど。その子は5年生の時に5年生同士で絶対全国へ行くんだと約束したらしいんですね。第3回の全国大会で優勝した翌年のことでした。
Nのお父さんは、トヨタに勤めていたのですが、雨が降っている日は、子どもとお母さんは教室に行っているものだから、帰っても誰もいないわけです。あげくのはてにこう言い出したんです。
困ったのはお母さんでした。そこで息子に「お父さんがやめろって言っているけど、どうする?」と聞いたんです。でもNは「絶対にやめない。男の約束だから。いいよお母さん、雨が降ってもバスでいくよ」と答えたんですね。
子どもがこう言うと、お母さんはやめろとは言えませんよね。でもお父さんはやめろ、やめろというんです。お母さんは辛かったんでしょうね、雨が降るたびにキャプテンの親に電話して泣いていたんです。
1月15日に全国予選が終わりました。勝って全国出場が決まったんです。子どもたちはすごく喜びました。Nはその日、大急ぎで帰ったんです。お父さんとお母さんに早く報告したかったんでしょうね。ところが、その日はお父さんがなかなか帰ってこなかったんです。4時になっても5時になっても帰ってこない。7時になっても帰ってこないんですね。お母さんはNに、「あんた、お腹がすいたでしょ」と言ったんですが、Nは、「いや、いいよ。お母さん先に食べて」とじっと待ったんですね。
8時になっても帰ってきません。「あんた、食べときなよ」「いや、いい」。9時になっても帰ってこない。10時になってやっと帰ってきたんですね。食卓にはごはんの用意がされていて、みんな食べずに待っているんですよ。お父さんは、照れくさそうに座ったんです。「おう、今日どうだった」
するとNは正座してお父さんに手をついて、涙声で言いました。
Nは続けて、「お父さん、お母さん、3月の全国大会まで、どうかよろしくお願いいたします」とすすり泣いたんですよ。
それを聞いてお父さんは、お母さんにこう言ったんですよ。「おい、最後までしっかり送り迎えしてやれよ」
お母さんはびっくりするやら、うれしいやら、感動するやらで、すぐにキャプテンの親に電話したんです。「お父さんがね、いいって、いいって……」
友情——ナベの物語
第3回大会で全国優勝したメンバーの中にナベという選手がいました。キャプテンの次ぐらいに信頼できる子でした。その年は1月ごろから腹痛を伴う風邪が流行りましてね。Aが3日休んで、やっと出てきたと思ったら、今度はBが休みます。
私は風邪を引いている子どもには、絶対に練習をやらせません。医者がいいと言うまでやらせません。親からもらった大事な体なんですよ。当たり前のことじゃないですか。
そのうちナベも風邪を引いてしまったんです。私は休めと言いました。しかし、休んでから4日たっても出てきません。電話をしたら、まだお腹が痛いということでした。5日たっても来ないものでしたから、私は病院を変えるように言ったんです。それから10日たちました。まだ来ません。これはダメだということで、市民病院で精密検査を受けさせたんです。これでやっと病名がわかりました。何と盲腸だったんですよ。
私は、盲腸なら切ればすぐに治るなと思いました。ところが担当医の方が「お腹の中がうみだらけで、肝臓にも達していますから手術はできません。完治は早くて3か月でしょう」と言うんです。がっくりきました。気の毒でした。48kgあった体重も10kg減りましてね。本人も親もすごく落ち込んでしまったんです。
そのときナベの親は、私のところへ来て言いました。「先生、実は全国大会を楽しみにして、貯めてきたお金があるのですが、どうか全部使ってください」
私は即座に答えたものです。
3月下旬、出発するとも何も言わないで、全国大会へ行きました。予選リーグが終わって、決勝トーナメントの2回戦で兵庫の園田と対戦しました。接戦でした。前半を終わっても接戦でした。
後半に入った時、突然、子どもが言ったんです。「先生、ナベさんがおるよ」「え、本当か。呼んで来い」
コートにはユニフォーム、シューズがないと入れません。ナベはユニフォーム姿で、よろよろになって降りてきました。しかし子どもは「ナベ、ナベ」と言って喜んだんですね。雰囲気も良くなって、試合も勝ってしまったんですよ。友情とはいいもんですね。
代々木体育館から帰る時も、みんなが「ナベさん、おんぶさせてください」と言うんですよ。宿舎で寝る時も、その時は5人でひとつの部屋だったのですが、ナベが入ると6人になるわけですよ。寝ぞうの悪い子もいます。寝返りかなんかで、もしナベの体に乗ったりしたら大変です。
そしたら同部屋の子らが「まかしておいてください。絶対にナベの体には乗ったりしません」と言うんですよ。どうするのか見ていたら、ナベを5人の頭のところに、ヨコに一人で寝かせて5人はタテに並んで寝たんですね。
決勝では沖縄の北谷と対戦しました。第2クォーターでリードして、後半に入りました。最終クォーターに入って、勝利が確実になりました。そしたら選手が監督の方にサインを送りだしたんです。タイムを取ってくださいって言うんですね。残り7秒でやっとタイムが取れたんです。子どもが飛んできました。
私はハッとしました。ナベが泣いているんです。
「おい、ナベにボールを持たせるのにはスローインしかないな」
「ほらナベ、ボールを持てよ」
「ボールを受けるのはキャッチのいい、マサ、おまえが受けてやれよ」
「わかった」
「セイジ、マサが受けれるようにピックにいけよ」
「僕が受け取ったら、もう一度ナベに渡すにはどうしたらいい」
「よし、ヨッチ、ナベの手を引っ張って連れて来いよ」
応援団はみんな下を向いて泣いています。見えるのはハンカチだけ。感動的な優勝でした。
閉会式では7名が賞状やカップを受け取ります。もちろんナベもその中に入りました。私の教室は整列した時に頭を動かしたりするものはいません。ところが、Vカップを受け取った後、みんなの頭があちらこちらで動くんです。なぜだかすぐにわかりました。その時、ナベが一番重いカップを持っていたんですよ。それが子どもたちは心配だったんですね。
「ナベさん持ちますよ」
とにかくチームワークなんですよ。このごろは兄弟の数が少なくて、兄さんが弟のめんどうをみて、弟が兄を尊敬したりということはないですよね。しかし、小学生のころから、このような同志的な結合を感じとれるのはバスケットしかありません。本当にバスケット万歳だと思っています。
苦労から生まれた信念——矢田香子の半生
それでは最後に私のおいたちを簡単にご紹介して、この講演の締めくくりといたします。私は貧乏人育ちで、4歳の時、父親が亡くなりまして、その後、おじさんの所へ養女としてもらわれました。その父親も私が女学校の4年の時に脳溢血で亡くなったんです。
当時、私は女学校でテニスをやっていたのですが、小さな学校でしたので、陸上競技にも借りだされました。ある大会で高飛びに出たんですが、その時に出した記録が、学校の資料で調べたところ、どうも日本の20傑に入るらしいんですよ。今思うと、本当に恥ずかしい話ですが、こりゃあ、本格的に練習すれば、他の陸上競技でも日本で10位以内に入れるかもと思いましてね、そこで私は産みの母親に手紙を書いたんです。
そんなこんなで私は体育の学校に行くために、東京に行くことになったんです。私のすぐ上の兄や母親たちが、合計月3円の仕送りをしてくれました。しかし1年くらいで、この仕送りも途絶えてしまいまして、結局、私は働きながら体育の学校を卒業したんです。
卒業後、私はオリンピックの選手が集まって練習する場所へ通えるところに就職しまして、その時の月給は確か6円でしたね。田舎の母親に毎月4円送るんです。卒業の時に借金が30円ありまして、毎月2円80銭ずつ返済しなければいけません。そうすると計算があいませんね。実は私は音楽の先生のところで女中をしてたんです。洗濯をしたり、食事を作ったりしてね。そして毎週の土、日に電車賃と小遣いをもらってオリンピックの練習に通ったんです。一週間の中でもその時が一番うれしかったですね。
ところが、ある日、田舎の女学校から連絡がきて「お前は日本的な選手だから、ぜひ帰ってこい」と言うんですよ。私は東京にいたかったのですが、母親も私と一緒に住みたいと言ってきまして、とうとう断腸の思いで帰ることにしたんです。
女学校での給料は6円50銭でした。しかし、人生というのはよくしたもんでして、帰るのを待っていたかのように、母親が脳溢血で亡くなってしまいましてね。こういう言い方はなんですが、毎月4円を母親に渡していたのが、その必要がなくなったんです。
当時、私はやり投げをやっていたのですが、いいスパイクも、いいやりも持っていなかったんですよ。だからこの時ばかりと新しいのを買いましてね。4ヶ月の間で、外国製の新しいスパイクを3足といいやりを3本も買ったんです。
ところが、その時の日本選手権で、日本で2位の人に負けてしまったんです。やりとスパイクが良くなったら負けたんですよ。ショックでした。オリンピックの夢も、なんかなさけなくなってしまいましてね。私ね、その時放心状態でね、死のうかと思ったんです。新宿駅へ行って中央線に乗ったんですよ。甲府で降りて、死にたいってさまよい歩いたんです。まあ死ぬことはできませんでしたけどね。ともあれ私は死なずに帰ってきました。
ある日のことでした。私の教え子がやってきてこう言うんです。「先生、父親が倒れてしまったので、今度母親の里へ一緒に帰って面倒をみなくてはいけなくなりました。学校もやめなくてはいけません。いろいろとお世話になりました」
よくできる子でしてね。私はやめてほしくなかったんですよ。そこで私は、私が面倒をみてあげるから、ぜひ学校を卒業するようにしなさい。お父さんとお母さんに聞いておいでと言ってあげたんです。
よほどうれしかったんでしょうね。暗いうちから校門の前で待っていたらしく、私が行ったら飛んできて、私の耳元で言うんですよ。「先生、いいの、いいの、本当にいいの?」熱い涙が私の頬を伝わってきましてね。
そこで私はその子に毎月4円渡すことにしたんです。ところが、世の中って不思議なもんですね。その時、突然、母親の里から手紙が来ましてね。”母親にはこれこれこういう訳でお前が体育の学校へ行っている間、金を貸してある。貧乏の時はいいが、しかし、今となっては返してもらおう”という内容でした。私は悔しくてね、そういうことなら、返してやると思って、毎月3円ずつ返済することにしたんです。
そこで、私はまたアルバイトを始めました。おかげで新しいスパイクなんか、とうてい買うことができませんので、古いままのやつを使っていました。やりも古いまま。練習も石ころだらけのグラウンドでしていました。
みなさん、いい環境だから良く勉強ができるんですか。いい勉強部屋があるから勉強ができるんですか。指導者の先生、うちの校長は話がわからないから強くならないんですか。環境がいいと優勝できるんですか。いい素質の選手が集まれば必ず強くなるんですか。違いますよね。
バスケットはチームワーク、そして愛だ。
チームワークができなければ、バスケットなんか勝てないものなんですよ。
本当にバスケット万歳だと思っています。
講演者プロフィール
矢田 香子(やだ・こうこ)
大正3年4月20日生。岡崎子ども教室総監督。常に学び続け、成長し続ける教育者、そして指導者であり、その謙虚さには頭が下がる。情熱誠実、包容力などを豊かに備え、世の指導者として優れた資質を持つ。人情も細やかで地域の信望も厚く、母の母として敬慕されている。
(5月18日・熊本市西里小学校体育館にて講演)
